「真言、蔵を開く」
お大師さまの言葉。
全ての人が自心の中に宝を持っている。
1200年の歴史を持つ高野山。
奥の院へ続く道には、たくさんの墓石がならぶ。
織田信長、明智光秀、初代市川団十郎、親鸞、関東大震災で亡くなられた方々、日韓戦争の戦没者、キリスト教の布教をたたえる石碑、Panasonic、SONY、SHARP、日産、トヨタといった名だたる企業の社墓、シロアリの供養塔まであった。
真言密教の聖地でもあり、日本有数の祈りの聖地でもある。
もちろん、百を越える寺院が、東日本大震災の為の募金や祈りをずっと続けている。
お大師さまはまた、こうも説く。
「あらゆるものは、あるがままに計り知れないほどの多くの仏の姿をしていて、一切智を備えている」
何がこの東京と違うのか。
そこでは誰もが仏の心を持つという信心がある。
「相互供養、相互礼拝」
誰が正しいとか、何が悪いとか、誰が勝ちだとか、そういう価値観で物事をみている限り、つまり、他者と自分とを分別しているかぎり、本当に平和な心は訪れない。
一切が空である。という言葉が本当に腑に落ちる事はない。
空とは繋がりの事。全ては空で出来ているから、本質的に違いはない。ミクロのレベルでみれば、全ては電子と原子、あるいは粒子、量子でできている器に過ぎない。科学も同じ結論に辿り着く。
何故、高野山は1200年も残り続けているのか。
人々の信心の力と、厳しい戒律と、その時その時の人間の嗜好に柔軟に寄り添う姿勢を巧みに使い分けて来たからだ。
「即身成仏」人も仏も本質的には変わりない。
高野山からの帰りの電車の中で小さい女の子と男の子の兄弟が、とても愉しそうにふざけ合っていた。もちろん、大人の感覚でいれば、うるさい。でも、私にはとても尊い存在に見えて仕方なかった。自分のはなくそをとって、普通に食べている女の子に尊敬の気持ちすら持った。汚いと感じる心が汚いのかもしれない。
私が密教の中で観る最大の尊敬すべき教えは「分別しない」事である。
学者や大人は、これはいい、これはいけないと分ける。これは恥ずかしい。これは誇らしいと分ける。
それこそが対立を生み、生まれながらにして尊く平等である存在を見えなくしてしまう気がしてならない。
かく言う自分が、現代の世で生きていく時に、どれだけ分け隔てなくありのままの感覚に近づけるかは不明だが、恐らくそこに向かおうとしている気がする。